スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| ▲ page top |

6/25・26 お手紙プロジェクトスタッフ第二弾 (中村)

6月23日~26日 お手紙プロジェクトスタッフで、被災地にお手紙をお渡ししてきました。

全体を振り返ると、被災地はより複雑に、ひとりひとり個別の段階に入ったことを痛感しました。
3日間、宿は避難所にもなっている南三陸のホテル観洋に泊まりました。
水以外は電気も食事もあり、大浴場でお風呂も入れ、3ライフラインが全てなかった震災後3週間目とは比べられない快適さで、申し訳ないほどでした。

震災3週間後、1ヶ月半後、と段階的に目にしてきた南三陸の風景もずいぶんと人の手が入り、前に進んでいることを実感しました。
震災当初、家屋の破片や瓦礫で町全体が灰色に敷き詰められていた町は、地面が見えるようにまでなっており、かわりに海沿いには数十メートの高さに積み上げられた瓦礫の壁のようなものが出現していました。

避難所の様子も、ずいぶんと変わりました。
仮設住宅が避難所のそばの敷地に立っており、引越後の買い物や役場の手続きで日々忙しく活動されている方もいらっしゃれば、一方で仮設への抽選にもれ、避難所の生活が長引く方もいらっしゃり、「もう年寄りだから希望がもてない」と口にする方もいらっしゃいました。
家がある方、半壊の方、避難所暮らしの方、仮設へ移られた方、ホテルの避難所での生活を送る方・・・地域のなかでも様々な軋轢があることを肌で感じ、より支援が難しい段階に入ったことが感じられました。

震災当初も、もちろんおひとりおひとりだったのですが、不自由な避難生活の中で困難な生活を共に乗り越えようという、
ある種の全体性があったように思います。
今は、いくつかの選択肢のなかでの、それぞれの生活がはじまり、おひとりおひとりがより現実を伴った将来へ一歩進み始めている、(または進み始めざるを得ない)ことを痛感しました。

24日深夜 ボランティアを後方支援してくださるJAPANHOPE服部さんの車に、まずはお手紙プロジェクトの3名、そしてリサイクルプラスチックを利用して被災地にプランターを届ける支援をされている田宮さん方と同乗し、向かいました。

ホテル観洋に送付してあったお手紙を車に積み、岩手県へ。
岩手県は初の訪問。途中、釜石や大船渡を通り、山田町へ。
山田町は、お手紙プロジェクトにメールで協力を呼びかけてくださり、その後役場や教育委員会を紹介してくださった京都のKさんのご尽力でつながりが生まれた町でした。
Kさんご自身も山田町のご出身で、水産加工業を営むお父様の工場が罹災し、弟さんとともに他県の工場へ移られるということで、震災をきっかけにご家族が離れて暮らすことになったと仰っていました。

違う港へ、違う工場へ。
生きていくために、家族が離れて暮らさざるを得なくなった家庭が、本当にたくさんあるのだと思いながら港町を通りました。

山田町は奇跡の復興と言われ、家屋の破片や瓦礫は非常にきれいに片付けられており、前に前に進んでいることが実感できる力強い町でした。
役場のN村さんを尋ねました。以前にお手紙とレターセットなどをお送りし、役場に設置していただいていた方です。
3ヶ月を超え、役場には行方不明のご家族の死亡認定窓口が設けられていました。

N村さんは、そこで市民の方の対応をされながら、近くの避難所をこまかく見ていらっしゃいます。
新たに切手を貼ったレターセットやはがきをお渡ししましたら、「お店を再開したという市民の方が、お客様への告知用にはがきを使いたいからと、さっそくまとめてお渡しできました!」とにこやかに報告してくださり嬉しかった。

そして教育委員会のH山さまのところへ。
いくつかの小学校から提案いただいた、小学校同士の支援についてのご相談です。
ここで被災地のリアルな現実を耳にします。
「支援を申し出てくださる学校が、実はとても多く、うれしい悲鳴なのですが、一つ一つにお答えできない状況になっている」
さらに「子供たちは、やっと6週間のカウンセリングが終了し、日常の授業への一歩を踏み出したところ。お手紙や、お返事書きというのは、子供たちにもう一度「震災」というフィルターを通過させてしまうことになる」と。
カウンセリングが終了し、心理的に少々重かった子供は病院にも通わせているということ。
大人よりもショックに対しての距離感がうまく作れない子供が、「震災」への距離感をやっとつかもうとしているときに、励ましの言葉や、支援の気持ちは、子供たちをいやおうなく数ヶ月前の「震災」に引き戻してしまう。
そっと見守るという節度を、支援者はわきまえなくてはならない、そう強く思いました。

また、私たちは教育委員会を通したのですが、直接小学校へ手紙や言葉をどんどん送ってしまう人もいる、海外からは英語の手紙がそのまま送られて来て、英語教師がその翻訳に掛かりきりになっているなど、支援者のマナーも問われていると、切に思いました。

熱い思いを寄せてくださった、とある小学校の分だけ支援の気持ちを受け入れてくださることになりましたが、その他の提案は、全てこちらから身を引きました。
ほがらかに対応してくださったH山さんに感謝します。

そのあと、H山さんは役場のベランダを案内してくださり、一緒に山田町を見下ろしました。
曇天の空でしたが、海は静かでした。
H山さんは海が好きで、昼食後海岸線を散歩するのが日課。震災当日も海を散歩したと言います。
「あの海が襲って来たとは信じられませんでした」
役場のすぐ下まで浸水し、小学校では親が独自に連れて帰ったお子さんに、犠牲が出たそうです。
時間とともに変化する被災地のリアルな部分を胸に刻んだスタートでした。

その後、山田町の観光協会、仮設商店街へ。
観光協会の道の駅では地元の方がお買い物に集まっていらっしゃいました。
地元のお野菜やお惣菜を買っていかれる方々。日々の生活が始まっているのだと実感しました。
仮設商店街は、保険屋さん、洋品店、ケーキ屋さんなどが小さくお店を出す、テント小屋のようになっており、かつての商店街はこんなお店が連なっていたのだろうな、と想像しながら一軒一軒回りました。
ちょうどお誕生日カードを書いているお母さんがいらっしゃったので、こちらに届いたハッピーバースデーの音楽が鳴るカードをまとめてお渡しでき、喜んでいただけました。

110705_1.jpg


途中犬を連れている方がいらっしゃったので、車を止めてお手紙を持ってダッシュして犬に驚かれたりしながら(笑)、次は山田町の仮設住宅へ。
お留守の方も多かったので、ポストにお手紙を投函させていただきました。
はがきやレターセットなども添え「全国から皆さんへ届いたお手紙です」というお断りの紙を入れて、ポスト投函。
帰ってきたらお手紙がポストにある嬉しさを、少しでも感じていただけたらと願いです。

110705_2.jpg


仮設住宅のベランダで、花や野菜を育てている方がとても多いことに気づきました。
小さな命に託すもの、託すことがあるのだ…。
たくさんの花を咲かせてほしい、もっと種をお届けしたいと願いました。
プランターや土が置いてあるお宅には、なるべく花の種の入ったお手紙を投函しました。
直接お渡しできたお母さんや、おばあさまは、遠くからありがとうね、と仰っていただき、はじめて被災地入りするスタッフをもおり、こちらが恐縮しきりでした。

110705_3.jpg


翌日、南三陸志津川高校でカフェをやっているK山さんの車に乗せていただき、南三陸志津川中学校の仮設住宅へ。中学生たちがブラスバンドの練習をしていました。
2ヶ月前中学校を訪ねたときは、まだ授業も再開していませんでした。
トランペットやクラリネットのよく響く音が校庭を越え、仮設住宅まで届きます。
その力強い音色に、感慨を深くしました。ここまで進んできたのだ。
若い子たちの笑顔はどうして、あんなに力強いのだろう。
ありがとう、と本当に言いたくなりました。
女子学生へ可愛いレターセットや、綺麗で可愛いお手紙をお渡ししました。
しかし力を貰ってしまったのは、私の方です。
励まされているのはむしろこちらなのではないか。
そう思いながら、彼女たちのはじける声を聴いていました。

志津中の仮設住宅も一軒一軒回ってお手紙をお渡ししたり、ポストに投函したりしました。
玄関先で何かの道具を磨いていたおじいさんにスタッフがお声がけし、気づいたら彼はおじいさんの自宅に上がりこんでお喋りしています。
大工のおじいさんは、大工道具を支援してくださった方へ、お返事を書きたくても神経痛でうまく文字が書けず、ちょうど親戚に代筆を頼もうかと思っていたところだったとのこと。
一緒に文面を考え、お手紙を書き、お預かりしました。
ここでも花の種は大人気で、プランターと土も欲しいとのこと。
プランター支援の団体に連絡しましたが、うまく連携が取れると良いと思います。

志津川高校の体育館はいまだ避難所になっています。
猫を飼っていらっしゃる方などもおり、長期に亘る避難所での暮らしがありました。
懸賞ナビとはがきのセットなど、時間つぶしになるお手紙などもお渡ししました。
あるご夫婦に「町もずいぶん人の手が入り、地面が見えるほどになりましたね」とお話したら、おばあさまがゆっくり話し始めてくださりました。
「町が少し片付いたから、つい先週やっと自宅跡に行けたんです。その前まではどうしても行けなかった、無理だった。で、自宅はなーんも残ってなかった。だけど、庭にノウゼンカズラの芽だけがワーっと出ていたの。こんなに塩をかぶった土なのに、芽を出してくれた。泣いてしまった」と。
おばあさんは町でもご自慢の、花を育てるのが上手い方だとのこと。
畑に毎年チューリップでもなんでもいつも沢山咲かせていたと。
また咲かせてくださいと、花の種入りのお手紙をお渡ししたら、「仮設の抽選に落ちてしまったからね、希望がない。年寄りだし、この先どうもならないねえ」と仰るので、本当に胸が張り裂けそうで、花の写真を送ってくださったお手紙や絵葉書を沢山お渡ししました。
避難所のダンボール壁に全部貼りたいと、とても喜んでくださりました。
けれども、本当は家を差し上げたいのです。庭を差し上げたいのです、せめて仮設住宅に早く住めるようにするにはどうしたら良いのか・・・。

この避難所の隣にある仮設住宅にも、お手紙をお渡ししました。
志津川高校に常駐していた自衛隊沖縄支部は、残念ながら一週間前に撤退していました。
志津高には、最初のお手紙渡しのときにお世話になったAさんもいらっしゃいます。
被災されながら、毎日避難所の食事を作っているAさん。Aさんのお子さん方も、沖縄自衛隊に三線(さんしん)を習っていました。
沖縄音楽を教わる子供たちが、次への一歩に思えたと仰っていました。
撤退が残念でなりません。

沢山送ってくださった自衛隊へのお手紙は、ベイサイドの自衛隊基地へお届けしました。
多賀城市の自衛隊が受け取ってくださりましたが、「この町でここまで支援をしたのは僕たちではないので、沖縄支部と熊本支部に渡します」と非常に礼儀正しい対応をしてくださり、感動しました。

一番はじめに仮設ができたことで支援物資が滞り、当初困窮された登米市横山の仮設住宅へ。
いまは支援物資も届き、日常生活が始まっているように見えました。
ここではプランターで花や野菜を育てている方が非常に多く、文字通り飛ぶように花の種が喜ばれました。
特にこちらでは野菜の種の需要が多く、次回は必ずハーブや野菜の種を持ってこようと思いました。

この日から合流したお手紙プロジェクトの女性スタッフを交え、夜中まで総勢5人でお手紙のセッティングなどを最終準備しました。
心あたたまる千葉の小学生からの絵手紙は、いくつかをくっつけてポスター上にして、いまだ450人の避難者のいるホテル観洋に貼っていただくことにしました。
そのほか、七夕の短冊にメッセージを書いてくださったお手紙は、このホテル避難所に開設された寺子屋さんにお預けしました。
近くで笹を切ってきて、課外授業をしたいと思いますと言って下さりました。
寺子屋を開設したのは、新宿からもう数ヶ月ボランティアに来ているおぐすさんです。



翌日は石巻へ。ビッグバンという大きな避難所に行きました。
雨ではありましたが、この日は日取りが良いということで、近くにできた仮設住宅に引っ越す方が多く、荷造りでお忙しくされていました。
その中のお一人、おばあさんが「私お手紙が大好きなんです」と声をかけてくださりました。
嬉しい、嬉しいとお手紙を読んでくださり、パッチワークが好きだと仰るので、きれいな切り絵のお手紙を並べたら、「わあ!きれい!」。
その全部を(いろいろな方宛に書いてくださった方、すみません)お渡ししました。
一つ一つをつなげて、仮設住宅の壁に貼ります、と仰ってくださいました。
そのほか、猫や犬のポストカードを涙目で喜んでくださるおばあさまにも、動物ものの絵葉書をたくさんお渡ししました。
やはり女性はきれいなものを見ると、テンションが上がるものなのだ!
そして皆さん、綺麗なものは壁に貼るんだ!と思い、よりいっそう美しいものを集めたいな、と思いました。

ビックバンは大きな避難所過ぎて、「物資は行っているだろう、炊き出しは足りているだろう」という支援者の逆さの判断から、炊き出しががあまり来ないと聞いていました。
群馬のケーキ屋さんが子供たちと作ってくださったメッセージ入りのクッキー(食品衛生士の指導付)をお配りし、大変喜ばれました。

かつて力士でいらして、東松島でちゃんこ屋さんを経営する地元の有志、Tさんにご挨拶しました。
国からの避難所へのお弁当の予算200円(!)では美味しいものは食べてもらえないと、赤字必至でお弁当を作っていらっしゃいます。
Tさんのダンディズムにしびれながら、紹介された東松島の二つの避難所へ。


子供たちがちょうどスイカ割りをするところでした。
この小さな避難所ではお手紙やレターセットをお渡しすると、お隣の方や同部屋の方にも、と皆さん率先して配り歩いてくださり、避難所としてのあたたかい結束力に触れました。
次のところも町から少し遠く、国道からも一本入ったところにある、ひっそりとした避難所でしたが、自治組織のおじ様方が頼もしい避難所でした。
しかし後からお話を聞くと、奥様、お子さん、ご両親皆さんを亡くされていると聞きました。
震災当日、水につかりながら子供たちを崖に上に上げた、雪の降るなか、近くの生木を拾ってきて焚き火をし、誰かが持ってきたブルーシートにくるまって皆で一晩外で過ごした、朝まで助けてーという声が聞こえていたことなどを聞きました。

振り返ってみると、困難ななかでも、前に進もうとしている。
仮設住宅であれ、避難所であれ、毎日というものが始まっていることを痛感しました。
言葉は難しいもので、今は「がんばって」という言葉も届くのかもしれないと感じました。
「こころから応援しています」「ずっと見守っています」そんな短いメッセージをお渡ししたくなった、ということもあります。
むしろ長いお手紙や、情緒的すぎるお手紙は、震災への記憶が生々しかった数ヶ月前の感情となっているのかもしれません。
日々というのは、望むとも望まざるともかかわらず、進まざるを得ないものです。
つらさや喜び、小さなもの大きなものもありながら、それでも前に進んで行く毎日という時間。そのことに思いを馳せました。
行政への文句や、政府への言葉も第一声としては出ないくらい、もう被災地の目の前には毎日が横たわっていました。
その毎日へどんな言葉をお届けすればよいのか。あらためて考えて行きたいと思います。


中村


次回は、どうしてもお渡しできなかったお手紙について、注意も含めて書いてみようと思います。
お手紙を書いてくださった方、さまざまな物品を提供してくださった方、ありがとうございました。
そして受け取ってくださった被災地の皆さま、感謝いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。


| ▲ page top |

コンテンツ

更新履歴

検索

ツイッター

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。